今日活動している全てのピアニストはみな、ブラームスの作品、特に晩年の作品116から作品119を演奏しているようにさえ思える。しかし以前からそうだったわけではない。アメリカ出身のピアニスト、ジュリアス・カッチェンが1962年にデッカ・レコードからリリースしたレコーディング作品が、ブラームスのピアノ作品全曲を録音した最初の例となる。その10年後にペーター・レーゼルがカッチェンの足跡を追ったのを皮切りに、今では多くのピアニストが同様の取り組みを行っている。

1926年にアメリカのニュージャージー州に生を受けたジュリアス・カッチェンは、弱冠10歳にして初ステージを踏み、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第20番二短調」を披露している。神童の評判を聞きつけた指揮者ユージン・オーマンディがカッチェンに声をかけ、フィラデルフィア管弦楽団との共演を実現させている。子供時代のカッチェンは、最初にロシア移民でモスクワとワルシャワの音楽院で学んだ経験を持つ、母方の祖父母に音楽の手ほどきを受けるようになった。しかし音楽以外の勉強が足りないと感じた彼は、一時的に音楽界を離れてハバフォード大学に学んだ。成績はきわめて優秀で、特に哲学はフランス政府からの奨学金を受けるほどだった。アメリカ代表として選抜されて、パリで開催されたユネスコ国際交流フェスティバルに参加し、ここでベートーヴェンの「ピアノ協奏曲”皇帝”」をフランス国立放送管弦楽団との共演で披露している。カッチェンはパリの街を気に入り、競争の激しいアメリカと異なりピアニストたちが強いつながりを持っていることに驚き、当地に永住することを決めた。彼は1956年にパリの西方に位置するル・ヴェジネに移住し、年若いフランス人の妻とともに、日本の伝統工芸品である根付の収集に熱中し、200点近くにのぼるコレクションを作り上げた。夫婦のコレクションは、2005年から2017年にかけてロンドンのサザビーズでオークションにかけられ、世界中の根付収集家から注目を集めた。

Netsuke from Julius and Arlette Katchen's collection
Netsuke from Julius and Arlette Katchen's collection

ジュリアス・カッチェンは、若い頃に輝かしいキャリアのスタートを切っている。1950年代初頭にはデッカでの録音を開始し、ベートーヴェンの「ディアベリ変奏曲」、アンセルメの指揮によるバルトークプロコフィエフそれぞれの「ピアノ協奏曲第3番」モントゥー指揮によるブラームスの「ピアノ協奏曲第1番」、ショルティ指揮による、記憶に残るラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」などを残している。カッチェンはツアーを繰り返しながら、クレンペラーモントゥーヨッフムアンセルメベーム、ショルティ、クーベリックファン・ベイヌムボールトアルヘンタマークバルビローリ、クレツキ、クリュイタンスと言った、そうそうたる顔ぶれの当時の名指揮者たちと共演を重ねていった。

ブラームスの旗のもとに

1966年にリリースされたカッチェンのブラームスのピアノ作品全集は、様々な反応をもたらした。1967年にはパリでフランス・ディスク大賞のグランプリを獲得する一方で、繊細さに欠けるヴィルトゥオーソと非難する声もあったのだが、その高い集中力を持つ表情豊かな演奏スタイルは、今日では賞賛の的となっている。しかし批評家と言うものは昔から、内省的であるために古風で繊細であるべきという使い古されたクリシェを使い回すものなのだ。この初レコーディングは長い時間を要し、ベルリン、ロンドン、ニューヨーク、アムステルダム、ウィーン、パリで各4回行われたリサイタルにおける演奏の後に行われている。レコーディングに4年の歳月を要した上に音質のばらつきがあったにもかかわらず、仕上がった作品には確かな一貫性があり、カッチェンのダイナミックな演奏スタイルを見事にとらえたものになっている。カッチェンは1962年に、有名な録音作品を数多く残しているデッカの有名なプロデューサーの一人であり、要求が厳しいことで知られるレイ・ミンスハルの見守る中、ブラームス最後の3曲である作品76、118、119からレコーディングを開始した。そして「パガニーニの主題による変奏曲」、「2つのラプソディ 作品79」、さらにフランスのピアニスト、ジャン=ピエール・マルティを迎えての情熱的な「4手のためのハンガリー舞曲集」でレコーディングを締めくくった。

室内楽と協奏曲

このコレクションは、ピアノ曲のみにとどまる者ではない。ジュリアス・カッチェンは全集の制作開始前に2つのピアノ協奏曲を、第1番はピエール・モントゥー、第2番はヤーノシュ・フェレンチクの指揮で録音している。またアメリカでの最後のツアーの最中にあたる1967年には、ワシントン・ナショナル交響楽団との共演により、1つのコンサートでブラームスの2つのピアノ協奏曲を演奏して絶賛を浴びている。またカッチェンは、室内楽でも卓越した能力を見せている。オーケストラと共演するソリストとして世界を旅する一方で室内楽にも情熱を傾け続けたカッチェンは、プラード・カザルス音楽祭でパブロ・カザルスとの共演も果たしている。カッチェンはカザルス、ダヴィッド・オイストラフとともにオランダ、ベニス、ブザンソン、プラハ、アテネなど、数多くの音楽祭に参加した。ヴァイオリニストのヨセフ・スークとの共演によるブラームスの「3つのヴァイオリン・ソナタ」は、この作品群の白眉である。カッチェンはスーク、そして高名なチェリストのヤーノシュ・シュタルケルとともに1968年8月20日、イギリス、サフォーク州のスネイプ・モルティングスでブラームスの「3つのピアノ三重奏曲」を演奏、録音している。3人が作品8を演奏しはじめた時、ソ連の戦車が「プラハの春」を打ち壊した。カッチェンと2人の共演者の苦悶が「ピアノ三重奏曲第1番ロ長調」から感じられ(スークはチェコの音楽一族の末裔であった)、3人の燃えるような演奏は真に感動的なものだ。このレコーディングは、かように歴史的な文脈と解きがたく結びついているのである。

最終章

ブラームス作品をめぐるこの大旅行は、ヤーノシュ・シュタルケルとの「2つのチェロ・ソナタ」の録音で大団円を迎えるはずだったが、その第2番を録音したところでカッチェンの輝かしいキャリアは断ち切られてしまう。不治の病に冒されていたのだ。それでもカッチェンは、懇意にしていた指揮者のイシュトヴァン・ケルテスとともに数枚のアルバムのレコーディングを敢行した。だがその後は急速に衰弱し、強い痛みにも苦しめられ、ピアノの前に座ることさえできなくなってしまう。ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲ニ長調」、ガーシュウィンの「ラプソディー・イン・ブルー」、そして再演となるプロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」が、カッチェンの最後の演奏曲目となってしまった。しかし、最後とは思えない演奏だ。ここでもレコーディングに対するネガティブな反応は、驚きに姿を変えた。カッチェンの指先が奏でるブラームスの「ピアノ協奏曲第1番」(ピエール・モントゥー指揮、1960年)のアダージョは驚くほど繊細で、永遠なるメランコリーに包まれ、ブラームス作品を通じて見られるクオリティ、特に年齢を重ねて病に冒された晩年に書かれた最後の諸作にあらわれるそれが見事に表現されている。ジュリアス・カッチェンは1969年、がんのためパリでこの世を去った。4年後にはイシュトヴァン・ケルテスがイスラエル旅行中に水の事故で亡くなっている。カッチェンは42歳、ケルテスは43歳と、2人はほぼ同じ年齢でこの世を去ったことになる。

レパートリーと後継者

ジュリアス・カッチェンがコンサートやレコードを通じて遺したピアノ演奏は大きな賞賛を得ているが、彼がもっと活動を続けられていたら音楽ファンたちはどういうものを聴けたのか、ということについては、ただ想像することしかできない。ブラームスはカッチェンが好んだレパートリーではあるが、他の作曲家たちを軽視していたわけではない。Qobuzではスタジオ録音とライブ録音からなる膨大な量のジュリアス・カッチェンの音源を提供している。彼のレパートリー中にバッハモーツァルト、(「ディアベリ変奏曲」の絶品の録音で)ベートーヴェンシューベルトシューマンショパングリーグムソルグスキーバルトークプロコフィエフらを見つけることは難しいことではないし、ネッド・ローレムエルネー・ドホナーニのような同時代の作曲家の作品も、20年で終わった彼のキャリアから生まれた素晴らしいコンサートやレコーディングのコレクションの一角を飾るものである。