フランスのマルチな才能を発揮するアーティストの部門でいえば、ベルトラン・ベラン(Bertrand Belin)こそがその筆頭だ。出版社P.O.L.から5冊の小説を刊行し、映画音楽(とりわけラリュー兄弟の作品)も手がけ、さらには俳優としての経験まである。ソロ・アルバムのキャリアにおいては、2010年に3作目の『Hypernuit』がシャルル=クロ・アカデミーから称賛を受け、名を広め始めた。2022年には『Tambour Vision』が批評的にも商業的にも成功を収め、その評価をさらに高めることとなった。そして『Watt』は、アラン・バシュン(Alain Bashung)やニック・ケイヴ(Nick Cave)にも喩えられる彼にとって決定的な作品となるのだろうか。これまでのアルバム同様、ベルトラン・ベランは特定のジャンルに自らを閉じ込めることを拒む。ロック、エレクトロ、クラシック、シャンソンが、謎めきながらもナンセンスな世界観の中で、優雅な気だるさとともに溶け合っている。
音楽家でありプロデューサーでもある盟友ティボー・フリソニ(Thibault Frisoni)と共に、ベルトラン・ベランは『Watt』を“同胞のための異教的な祈り”のようなアルバムとして構想した。ベランの人間味あふれる面は、とりわけ「Seul」という曲(ジェラール・マンセの名曲を想起させるかもしれない)や、ピアノによるワルツ風の「Certains jours」といった曲で感じ取れる。「Rembobine」では、ブルターニュ出身のベランは幻滅し哀愁を帯びた歌手へと変貌。これは『Tambour Vision』の「T’as vu sa figure」や「La Comédie」といった曲でも既に見せていた役回りだ。「Pluie de data」では、ベランのヒューマニズム(人間への共感・優しさ)はポスト・ヒューマニズムへと変容する。テクノロジーが全能の時代に、彼は“理想の衰退”というテーマに目を向ける。そして、それを魅惑的な詩的力をたたえた楽曲で表現する。
ベルトラン・ベランの作品は、暗号めいた言語を愛してやまない彼の姿勢を常に思い起こさせる。アルバムのタイトルひとつとっても、さまざまな解釈が可能だ。単位の“ワット”を指しているのか? それともサミュエル・ベケットの有名な小説『Watt』なのか? ベランは3つ目の、より意外な手がかりを与えてくれる。「“Watt”、それは子供の頃に観ていたアニメ『Wattoo Wattoo』、とても美しくて不穏な音楽のアニメさ」と彼は回想する。モントルイユの彼のスタジオから響く独特の音色は、1978年のこのアニメでユベール・バレイが奏でた胸を締めつけるようなシンセサイザーの音色から、そう遠いものではない。とりわけ「La Béatitude」においてそうだ。だが対比を好むベランらしく、クラシック音楽に着想を得た洗練されたアレンジもまた随所に登場する(「Ni bien ni mal」や「Amour ordinaire」のイントロ)。音楽的な装いがどのようなものであれ、『Watt』によってベルトラン・ベランは、自らが奇妙な歌手であり、アンチヒーローに魅了され、非人間化した世界を撃つ存在であることを改めて証明している。