1967年7月17日は、このアメリカのサックス奏者が40歳の若さでこの世を去った日として人々の記憶に残っている。彼がレコーディングで残した作品は、この楽器の歴史、そしてジャズと20世紀音楽の歴史さえも完全に書き換えた。

「私は自分のしていることが理解されていると感じたことはない。感情的反応。それがすべてだ。コミュニケーションの感覚さえあれば、理解される必要などない」-ジョン・コルトレーン

この「感情的反応」と「コミュニケーションの感覚」は、1967年7月17日に逝去したこの著明なサックス奏者の音楽を聴く者すべてが触れているものだ。耳の肥えたジャズ通から、通りすがりの初心者まで、誰もがコルトレーンの最も知られたアルバム『A Love Supreme(至上の愛)』を聴けば、その瞬間に必ず感じるものがある。コルトレーンという存在はジャズの巨人というだけにとどまるものではなく、ビバップ、ハードバップ、モードジャズ、フリージャズと、あらゆるジャンルを通り抜け、同世代の他のミュージシャンのような大口を叩くこともなく、むしろ音楽を天命とした神秘的な存在であった。

© Village Vanguard / Impulse ! / Downbeat

ジョン・コルトレーンの生涯はわずか40年だったが、それは彼がプレスティッジ、ブルーノート、アトランティック、インパルスという4つのレーベルを代表するアーティストとして録音を残すのには十分な時間だった。しかし彼が音楽の世界に足を踏み入れた時の歩みは決して目覚ましいものではなく、ようやく注目されるようになったのは、ディジー・ガレスピーのビッグバンドに参加してからだった。その後チャーリー・パーカー、ジミー・ヒース、バド・パウエルらと交流を重ねた後、1955年にマイルス・デイヴィスがレッド・ガーランド、フィリー・ジョー・ジョーンズ、ポール・チェンバースからなる自身最初のクインテットのメンバーとして彼を加えたことで、コルトレーンは本格的なブレイクの時を迎えた。マイルスは自身の自伝の中で、当時新進のサックス・プレイヤーだった彼の可能性を一目で見抜いたと語っている。

「俺がトレーンと一緒に演りはじめてすぐの頃、評論家のホイットニー・バリエットがコルトレーンのことを『肌理が粗くドライなトーンが、マイルスの宝石のような美音をひき立てている』なんて書きやがった。しかしトレーンはあっという間にそんな立場を乗り越えた。あいつ自身が宝石になったんだ。俺には分かっていた。あのプレイを聴けば誰だってわかることだ」

しかし2人の共演はわずか2年で終わる。ドラッグへの依存を強めていくコルトレーンをマイルスが解雇したのだ。

Miles Davis - So What (Official Video)

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その後自身の内なる悪魔との闘いに勝利して生まれ変わったジョン・コルトレーンは、1957年4月、プレスティッジ・レコードと契約を交わした。ここでコルトレーンは膨大な量のレコーディング・セッションに参加する。当初コルトレーンはほとんどのセッションでサイドマンの立場に甘んじていた。しかしその後プレスティッジは、『Coltrane』というシンプルなタイトルを冠した彼の最初のリーダー・アルバムをリリースした。そしてプレスティッジは同年、別レーベルでの録音を承諾する。そして生まれたのが、ブルーノートに残された伝説的名盤『Blue Train』である。この天才は自分で自分にはめていた枠を壊し、自己を確立しようとしていた。1957年9月15日、コルトレーンは交流のあったミュージシャンたちを集めた。リー・モーガン(トランペット)、カーティス・フラー(トロンボーン)、ケニー・ドリュー(ピアノ)、ポール・チェンバース(ベース)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ドラムス)がそのメンバーだ。表面的には典型的なハードバップに分類される演奏で、コルトレーンの象徴となるサウンドはまだ聴かれないが、それでもこの作品のレベルはきわめて高い。美しい曲が並び(ジョニー・マーサーとジェローム・カーンによる「I’m Old Fashioned」以外はコルトレーン自身の作曲)、6人のミュージシャンたちのインタープレイはこれまで聞いたことのない高みに達している。アドリブの斬新さは言うまでもないものだ。

プレスティッジ時代のジョン・コルトレーンは、明らかに新人の域を脱している。プレスティッジと契約することで、彼は30歳の頃に陥ったドラッグ癖に打ち勝ったのだろう。そしてここに至ってもなお、コルトレーンは進歩を止めようとはしなかった。よく知られているようにアトランティック、そしてインパルス時代も変わり続け、特にインパルス時代の変身ぶりは顕著だった。とは言えプレスティッジ時代のコルトレーンは誰にとっても聴きやすく、技術的にも完璧だし、既に彼とすぐ分かるような個性を聴かせてくれる。生来の内気な性格を克服した彼は、斬新なコード進行を追及しながら、その過程で自身のソロに磨きをかけていった。マイルスとの共演盤で忘れてならないのは、マイルスが彼を呼び戻して作った『Milestones』、そして何と言っても、ビル・エヴァンスも加わった『Kind Of Blue』だ。

1959年4月、ジョン・コルトレーンはアトランティック・レコードと契約を交わした。プロデューサーのアーメット・アーティガン率いるこのレーベルにコルトレーンは4枚のレコードを残しており、そのどれもがコルトレーンの音楽の究極の形だと見る向きも多い。その作品とは1960年の『Giant Steps』(はじめて自身が書いた曲のみで構成されたアルバム)、そして1961年にリリースされた3枚の『Coltrane Jazz』(ピアノのマッコイ・タイナー、ドラムスのエルヴィン・ジョーンズとの初共演)、『My Favorite Things』、そしてエリック・ドルフィーを迎えての『Olé Coltrane(オレ!)』だ。ここに来てついに、コルトレーン独自のサウンドが日の目を見た。この技術的にも和声的にもきわめてユニークなスタイルにより、コルトレーンはビバップの因習を打ち砕き、かつてのボスであるマイルス・デイヴィスとも別の道を進むようになった。とはいえこの時期に残された2人の共演盤『Kind Of Blue』がモードジャズのきわめて重要な里程標となっていることに疑問の余地はない。ジャズ界に身を置く多くの者にその複雑なサウンドで衝撃を与えたコルトレーンは、同時にブルースに根差すことを忘れることはなく、さらにアフリカやインドの音楽への関心も強めて行った。

ジョン・コルトレーンはインパルスと契約した。プロデューサー、クリード・テイラー主宰の同レーベル最初のアーティストになっただけでなく、レーベルの象徴とも言える存在となり、インパルスは「コルトレーンが建てた家」と称されるまでになった。オレンジのセンター・レーベルがトレードマークの同社のもと、コルトレーンはそれまで以上に精力的に実験を重ね、ジャンルの壁をのり越えていく。『A Love Supreme(至上の愛)』はもちろんのこと、『バラード』、『コルトレーン』、名ジャズ・クラブのヴィレッジ・ヴァンガードでのライブ盤の数々、デューク・エリントンやジャズ歌手ジョニー・ハートマンとの共演盤など、名盤がいくつも残されている。

A Love Supreme(至上の愛)』を、コルトレーンの名盤の一つにとどまるものではなく、ジャズ史上最高の名盤の一つと見る人は数多い。同作の発売50周年を記念して2015年末にリリースされた『A Love Supreme: The Complete Masters (Super Deluxe Edition) 至上の愛 ~コンプリート・マスターズ』は、多くの未発表テイク(サックスのアーチー・シェップ、ベースのアートデイヴィスを加えた6人編成での再録音を含む)に加え、1965年の夏にフランス、アンティーブで行われた単独公演のライブ録音も加えられている。『A Love Supreme(至上の愛)』が今も新しいファンを獲得し続けている理由は、想像に難くない。崇高で催眠状態を誘うようなトランス感を通して達することのできる高揚感があり、神秘主義と絡み合った怒りの感情に対する受け皿も容易されている。そしてコルトレーンは、神を通じた贖罪を見出す。アルバムのカバーに残された彼の言葉によると、コルトレーンがこの天啓を得たのは1957年ということになる。ボブ・シールのプロデュースの元で1964年に録音されたこの大名盤でも既ににじみ出ているコルトレーンのこの神秘主義は、モードジャズを通じて得られたものであり、コルトレーンはそこから広い視野を持つ旋律面での自由を獲得している。フリージャズの片鱗もそこここに見られるが、全体を貫くテーマは徹底的に洗練されている。4つの章(「承認」、「決意」、「追及」、「賛美」)からなり、忠実なる3人の随行者(ピアノのマッコイ・タイナー、ドラムスのエルヴィン・ジョーンズ、ベースのジミー・ギャリソン)の力添えも得て、この祈りに満ちたアルバムはひたすらに魂の高揚を目ざし、聴く者にコルトレーンの瞑想的かつ高貴で、しかもあふれ出るような思いを強く伝えてくれる。スピリチュアリズム、神秘主義、トランス状態、そして静穏が流れるように次々とやってくる。本作の和声的な自由さは、コルトレーンの音楽の変化の前兆となっている。『A Love Supreme(至上の愛)』は、おそらく今後もコルトレーンの作品で最も精神性の強いものであり続けるだろう。そしてこの後、彼は、エクストリームなフリージャズに向かうことになる。

翌年コルトレーンは、ファラオ・サンダース、マリオン・ブラウン、アーチー・シェップらを迎えた『Ascension』を発表する。しかし、近しい者すべてが自由さを増していく彼の変化について行ったわけではない。1年後にピアノのマッコイ・タイナーが彼の元から離れ、もう1人の忠実な伴侶であるエルヴィン・ジョーンズも、その後を追うように去って行った。そこからコルトレーンのグループはフリージャズに傾倒する全く別のバンドとなり、1966年5月28日には妻であるアリス・コルトレーンのピアノ、バンドに残ったジミー・ギャリソンのベースに、ファラオ・サンダース(サックス、フルート)、ラシッド・アリ(ドラムス)、エマヌエル・ラヒム(パーカッション)からなるパワフルな『Live At The Village Vanguard Again!』をリリースしている。

ジョン・コルトレーンは消耗が進んでいく中でも、人生最後の数ヵ月間まできわめて活発に活動し続けていた。コルトレーンの中でも最もエクストリームな作品と今でも言われることが多い、ドラマーのラシッド・アリとのデュオによる『Interstellar Space』はまさにピュアなフリージャズのアルバムだが、これが発表されたのは彼の逝去より後の1974年だった。1967年2月から3月にかけてファラオ・サンダース、アリス・コルトレーン、ジミー・ギャリソン、ラシッド・アリと録音された『Expression』は、2カ月後に迫った自身の死を見通していた彼のような作品だ。ここで聴くことができるコルトレーンは沈思黙考するようでいながら、強力なバック陣の間にあってもジャズの伝統との強いつながりを感じさせる。この録音の後、いくつかのコンサートが行われた。4月にはニューヨーク、ハーレムのオラトゥンジ・アフリカ文化センター、そして5月7日のボルチモア公演がコルトレーン最後のコンサートとなった。ジョン・コルトレーンは肝臓をがんに侵されても全ての治療を拒み、そして1967年7月17日、この世を去った。